報告書を一刻も早く出して、
この街から抜け出したい。
そう思ってるのは手に取る様にわかった。
彼らを目撃したからには、
今ここに彼がいないことはわかったし、
兄さんは恐れがなくなったかのように、
すごいテンポで廊下を歩いて行った。
「エドワード君。」
途中で声をかけられて、
僕たちは通り過ぎた曲がり角まで戻った。
そこにはホークアイ中尉がいた。
「あら、報告書?」
いつも通り、なにもなかったかのように、
そう尋ねてくる。
絶対に、もう何もかも気付いているはずなのに。
彼女がそう振る舞うということは、
こちらもそう振る舞えばいいということ。
「今出しにいくところです。」
僕はそう答えた。
中尉はにっこり笑うと、一緒に行きましょう。
そう言った。
久しぶりね。
そんな他愛もない会話をしながら廊下を歩き、
部屋につくと彼女は鍵でドアを開け、
席を僕らにすすめてすぐにお茶を淹れてくれた。
不思議なことにそこには誰もおらず、
静まり返った部屋は居心地が悪かった。
「こんなに静かなんて、珍しいわよね。」
彼女はクッキーの入った箱を机に置いて、
そう自分に言うように言った。
最近、特に忙しくて。
困ったように笑う彼女も、どことなく疲れがたまっているようだ。
「大佐は暇そうでしたけどね。」
僕はさっき見た大佐と女性の姿が目に浮かんで、
思わずそう言ってしまった。
少し怒りを含んだその言葉に中尉は笑うと、
いつものことよ。
ただそう言った。
「最近、どう?」
賢者の石の手がかり、
旅先であった出来事、
新しく知ったことや、
街角で出会った猫、
そんな他愛もない話に中尉は楽しそうに笑ってくれた。
兄さんはただ横で、相槌をうって笑っていた。
「中尉は最近どうですか?」
彼女のことだから、兄さんの異変にはとうの昔に気付いているだろうけれど、
それでも彼女が兄さんの話題に触れないように、
僕は話題を変えた。
彼女もたぶん、それに気付いただろう。
仕事の話ではなく、他愛もない話でのってきてくれた。
「相変わらず忙しい毎日だわ。」
彼女は短い溜息をついて、小さく笑った。
穏やかな午後の日差しが、彼女の髪を蜂蜜色に染めていた。
「自分の中のオンとオフを切り替えるスイッチが必要なの。」
それで最近本を読むようになったわ。
彼女はそう言って最近読んだ本の話をしてくれた。
哲学の話。
ミステリーの話。
恋愛の話。
様々なジャンルの本は、彼女を現実から切り離してくれるらしい。
特に最近お気に入りなのが、童話らしい。
童話といえば、幼い頃母さんによく読んでもらった記憶がある。
でももう随分と読んでいない。
彼女もまた、子ども向けの本だと特に興味はなかったらしいが、
ふと懐かしくなって一冊手に取ると、それがどうも興味深いらしい。
さらわれたお姫様は必ず王子様が助けにきてくれる。
不幸な子どもたちは、最後に必ず幸せになる。
そういう方程式が成り立っているから、幼い頃はそれが当たり前だと思った。
そしてそれを読んで、自分の身にも素敵なことが起こるんじゃないか、
それを願って喜ぶのが童話の効果だと思っている。
けれど彼女曰く、視点を変えるととても悲しく、滑稽らしい。
警備が厳重なお城からお姫様を連れだせるくらいの能力を持った魔女は、
なぜわかりやすい塔の上や洞窟の奥深くに閉じ込めてしまうのだろう。
これでは大切にしています、と主張しているようなものだ。
他の奴隷の女の子たちなどと一緒に生活させれば、
見つかりにくくなるだろうに。
その魔女はそんなことも考えられない程度なのか?
それならば滑稽だ。
それとも、作者という見えざる絶対的な力によって、
そうせざるを得なかったのか?
ならば哀れだ。
「息抜きに、童話でも読んでみたら?」
最後まで話すと、彼女は一口紅茶を口にして、
僕たちにそう言った。
優しく微笑む中尉の瞳を見て、
今ここにいつもの空気が流れていてくれたら、と心底思った。
穏やかな日常は、崩れて消えていったのに。
報告書を預けて帰るまで、
兄さんはほとんど口を開かなかった。
中尉はそれを問いただすこともなく、
兄さんがひとつも口にしなかったクッキーの箱をそのまま持たせ、
全部食べてね。
ただそう一言言って送り出してくれた。
何も変わっていないのに、
何もかも変ってしまった。
宿への帰り道、僕たちは一言も話さなかった。
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*二周年祭
© 2012 Nami NAKASE