男が密かに望んだものの、
朝はいつも通り滞りなくやってきた。
男は時間より少し早く起きると、
隣でうつ伏せに眠る少年を眺めた。
柔らかく流れる髪の下に、白い肌。
この肌はやけることを知らないようだが、傷は絶えない。
ふと腕を見ると、昨晩は気付かなかった傷がひとつ。
一体何をやっているんだ、と男は思う。
けれど、それを問い質し諌めるつもりはない。
あとで薬を塗らなくては。
男は、少年を黙って見守っていたいだけ。
もちろん、許容範囲内の場合だけだけれど。
男は少年を起こさない様にそっと起き上がると部屋を出た。
静かに階段を下りキッチンへ向かうと、コーヒーメーカーのスイッチを押した。
コポコポと音を立て始めたのを確認すると、洗面所へ向かった。
男は顔を洗いタオルで吹きながら、置いてある自分の歯ブラシに目が行った。
そして洗面台の横にあるチェストの中から買い置きの新しい歯ブラシを出した。
自分のと色違いのそれを、男は洗面台の横に置き、満足そうに笑った。
男がキッチンへ戻ると、そこには少年がいた。
「おはよう。」
「おはよう。」
男がもっと寝ててよかったのに、と言うと少年は不機嫌に言った。
腹減ってんだよ。
男は苦笑いを浮かべると、戸棚からカップを一つ出しコーヒーを淹れた。
少年はそれを両手で包み込むように受け取ると、椅子に座って部屋を眺めた。
「何にもないんだな。」
少年が率直に感想を述べると、男は声をたてて笑った。
男はスプーンとナイフを二つずつ取り出しテーブルの上に並べると、
パンをナイフで切り、バターとマーマレードをテーブルの上に置いた。
「必要ないからね。」
男はもう一つデザインの違うカップを取り出すとコーヒーを淹れ、
そのカップを自分の前に、砂糖とミルクを少年の前に置いた。
「殺風景。寂しくない?」
少年は砂糖とミルクを少し入れ、スプーンで混ぜながら言った。
男は自分も椅子に座るとパンを一つ手に取り、バターを塗りながら答える。
「そもそもこの家に長くいることがないからね。」
少年も男に倣ってパンを一つ手に取るとマーマレードを塗り、一口噛り付く。
男はこの状況に、少年が目の前にいる現実を再び実感した。
男は思わず頬が緩みそうになり、慌ててコーヒーで押し戻した。
少年はそんな男の状況に気付かず、二つ目のパンに手を伸ばしていた。
と、少年は何かを思い出したように顔を上げると、眼をきらきらさせて言った。
「ね、今日何作ってくれんの?」
「何が食べたい?」
何が食べたいかなぁ、と悩む少年に男は安堵した。
昨晩言ったことを少年が忘れてしまっているのではと不安だったのだ。
男にとってそれは約束、今日も自分のもとにいてくれるという保証だった。
「じゃあ、グラタンがいい。」
しばらくして少年が出した要望はグラタンだった。
男は少し黙って思案するそぶりを見せたかと思うと立ち上がり、
キッチンを出てどこかへ行ってしまった。
少年は怪訝そうに眉根を寄せると、追いかけようと席を立とうとした。
けれど男はすぐに帰って来て、立ち上がりかけた少年の前に何枚かの紙幣を置いた。
「うちには器がないんでね。それで材料と一緒に買ってきてくれないか?」
少年は男と紙幣を見比べた後、わかった、と返事をした。
男はにっこりと微笑んだ後、自分の食器を片付けた。
そしてパンをもう一つ取り出しナイフで切ると、少年の皿にのせた。
「もう行かなくちゃいけないんだ。すまない。」
男はそう言うと、少し急いでキッチンを出た。
たぶんゆっくりしすぎたんだろうと少年は思った。
自分の所為なのでは、と少し気になったが、
男が実は有能なのは知っているから心配ないだろうと結論を出した。
そして、男が新たに切ってくれたパンをかじりながら、
少し困ったように渡された紙幣を眺めていた。
まだ男がキッチンを去ってからそれほど時間はたっていないけれど、
男は準備を済ませて階段を下りてきた。
右手に上着、左手に救急箱と紙。
少年が、どうしたの?と問う前に男は救急箱を開け、
中から薬を出していた。
「どうしたの?」
少年がそう言うと男は薬、とわかりきったことを答えた。
少年が少し不機嫌になったのを悟って、男は楽しそうに笑った後、
その微笑を苦笑にかえて言った。
「怪我ばっかりしてくるから。」
男は薬をまず少年の腕の傷に塗り、それから顔にある傷に塗った。
少年は少し痛そうに顔をしかめた。
沁みる?と問う男に少年は大丈夫と答えた。
そんな少年が微笑ましく、男はその唇に小さなキスを落とした。
突然のことに少年は固まり、男はそれを見て微笑んだ。
少年が現実に戻ってきたころには男は既に救急箱を閉じ、戸棚の上に置いていた。
文句を言ってやろうかと思ったが、男の口元から微笑みが消えないのを見て、
少年は黙って口を閉ざした。
ひどくご機嫌な男を見て、少年もまたいつしか上機嫌になっていたのだ。
「洗面所に歯ブラシを置いておいたから使っていいよ。」
あとの足りないものは買っておいで。
男はそう言うと上着を羽織り、じゃあ、と一言言うとキッチンを出た。
少年は慌てて椅子から立ち上がり、男の後を追った。
玄関で靴を履いている男の背中に、少年は躊躇いがちに言った。
「い、いってらっしゃい。」
少し緊張した少年の背中越しの声に、男は一瞬驚いた。
随分長い間、誰かにそんなことを言うことがなかったのだろう。
彼らはずっと送り出される側だったから。
そう思うと男は自然と微笑み、立ち上がると少年の方へ振り返った。
「いってきます。」
男はドアノブに手をかけ、外へ出た。
その口元には、まだ薄く笑みが残っている。
少年が自分を送り出してくれる、その喜びを感じていた。
今まで、そんな風に思ったことはなかった。
あの場所に、そんな想いを描いたことはなかった。
けれど今日一歩外へ出た瞬間から、彼は楽しみにしていた。
今日、自分の家へ帰ることを。
愛する人が自分を待っていてくれる場所へ。
2011.03.28
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*Roy+Edward
© 2011 Nami NAKASE