ナイフの刻む音










時計の針が真上を向く頃、

少年が一人、街を歩いていた。

等間隔に並んだ街灯に照らされた影は、

伸びたり縮んだり、そればかり繰り返す。

穏やかな月は、雲の波間にちらほらと見えるだけで、

星もまた、月に倣う様にその姿を出し惜しんでいる。





今年の春はひどくのんびりとしていて、

春の陽気と呼べる日は、まだまだ遠いようだ。

今夜もまた、暖かいとは言い難く、

少年は両腕を胸の前で組み、

まるで自分を抱え込むように、その体温を包み込んだ。





そんな彼が立ち止まったのは、とある家の前。

彼はそっと門を開けると、足早に玄関へ向かった。

玄関の戸の前で、少年は一瞬止まった。

組んでいた腕を解き、その手は呼び鈴に向かうのかと思えば、

それは右のポケットの中へ向かった。

取り出したものは、鍵。

少年はその鍵を鍵穴へゆっくりと差し込むと、右へ捻った。





カチリ





小さな音を立てて鍵は開いた。

少年は鍵を取り出したのと同じ右ポケットへ入れると、

ゆっくりと戸を押した。

殺風景な廊下には何もなく、

戸の横にコート掛けと小さな靴箱があるだけだった。

音を立てないように戸を閉め、靴をそっと脱ぎ壁際に揃えて置いた。

そのままそろりと歩き始め、突き当りの階段の前で立ち止まった。

しばらく階段を眺めてから、彼は右に曲がった。

向かった先はキッチンで、彼は戸棚の中を物色し始めた。

けれどそこにはパンが数個入った紙袋と半分空になったウォッカのビンしかなかった。

彼はその隣にある冷蔵庫に手を掛けてみたが、

その中にもこれといったものは入っていなかった。

バター、マーマレード、卵が数個に何かの包み。

少年が冷凍庫を開けようとした時、部屋の明かりが点いた。







「何をしているんだい?」







電気を点けた男はそう言った。

その表情はかたく、正に無表情と呼ぶに相応しい。

少年は彼の方を向くと、バツが悪そうに笑った。

それを見て男は表情を崩すと、対照的な柔らかい笑みを浮かべて言った。







「おかえり。」







「ただいま。」







少年は一拍置いてそう答えると、居心地が悪そうに目を泳がせた。

男は、少年の一挙一動を見逃さない。

その泳ぐ目を見て、微笑んでいる。







「ごめん、腹減っちゃって。」







「それで、こっそり漁っていた、と。」







「怒った?」







少年は、男が無表情だった理由を、怒っているからだと思っている。

しかし、それは大きな間違いである。

男は、無表情でいた訳ではない。

無表情であることしか、選択肢はなかった。

本当にここへ帰ってきてくれるのか、それはささやかな願いで、

それが現実になった今、どんな表情をしていいかわからなかっただけなのだ。







「怒らないよ、そんなことで。でも生憎、この家には何もないよ。」







ご覧の通り、作れるのは朝食だけ。

そう言う男に、彼は安心した表情の後少し困った顔をした。

どうやら本当に空腹なようだ。







「あんた、料理しないの?」







「外で全部済ませてしまうからね。」







「もしかして、できないの?」







楽しそうに聞く少年に、男は目を細めた。

夜中に自分の家で、彼が楽しそうに笑っている。

今まで、現実になるわけがないと思っていた状況が目の前にあって、

男は自然と表情が緩むのを感じた。







「もちろんできるよ。チョコしか作れない君と違って。」







男がそういうと、少年はかっと赤くなった。

それは悔しさか、それとも照れているのか。

男はもちろん、照れているととった。







「んな、じゃ、じゃあ明日なんか作ってみろよ!」







声を荒げて少年は言った。

それで、本当に料理できるのか確かめてやる、と。

それは男にはこう聞こえた。



明日もあんたが帰ってくるまではここにいるよ、と。



こんな申し出を断るのはもったいない。

いつも、風にのってやってきて、同じように去っていくのだから。







「喜んで。」







だから、今日はもう寝よう。



男はそう言って電気を消し、少年の左手を握ってキッチンを出た。

少年は、男の右手をそっと盗み見た。

その右手が自分の左手を包んでいるのを見て、隠れて笑みを溢した。







幸せな夜だ。







そう思ったのは、男か、それとも少年か。

想いをのせて、夜は深くなっていく。












2011.03.27









*Roy+Edward










© 2011 Nami NAKASE